大嶺 祐太『信頼できる人や支えてくれる人がいたからこそ セカンドキャリアは怖くなかった』

 

大嶺 祐太
1988年生まれ。沖縄県石垣市出身。野球をはじめたのは小学校2年生。沖縄県石垣市の「八島マリンズ」で三塁手として活躍。中学生時代は硬式ポニーリーグの「八重山ポニーズ」で投手として沖縄で開催された世界大会で3位の成績を収める。その後八重山商工高等学校に進学。高校3年時の2006年には春夏と甲子園連続出場。その年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズより1位指名を受ける。2007年から2022年の16年間ピッチャーとしてNPBで活躍。引退後、株式会社OHの代表取締役として、飲食「ハーリー」でのオーナーを務めながらアパレルブランド「エルーシャ」を立ち上げる。数々の企業とのパートナー契約も結びながら、また野球スクール講師も務めながらさまざまな分野で活躍中。


これまでのキャリア

●2003年 八重山ポニーズで世界大会3位に
●2004年 沖縄県立八重山商工高等学校に入学
●2006年 春夏連続で甲子園に出場
●2006年 NPBドラフトで千葉ロッテマリーンズから1位指名
●2007年 千葉ロッテマリーンズへ入団
●2008年 北海道日本ハムファイターズ戦でプロ初勝利
●2021年 ロッテマリーンズから戦力外通告
      あらためて中日ドラゴンズと育成契約に
●2022年 16年間のプロ生活に終止符を打つ
●2022年 12月に株式会社OHの代表取締役に
●2023年 アパレルブランド「エルーシャ」を設立
      8月に料理店「創作ダイニング HA-LY 爬竜船」をオープン


■野球を始めたきっかけは、遊びのキャッチボール

少年から大人まで草野球が盛んだった石垣島。野球との出会いは遊びで覚えたキャッチボールから。幼少期は年齢問わず誰とでも野球ができる環境が身近にあったため日常の遊びといえば野球だった。ただ、ちょうど1990年代後半Jリーグが全盛期ということもあり、野球だけではなくサッカーにも興味を持ち始めた時期だった。

実は大嶺さん自身サッカーの方が好きで、自らリフティングの練習をするほど夢中になっていた。しかし周りの人たちから「サッカーはル-ルが難しい」と言われ当時は子供心で素直に受け入れてしまった。「ルールがシンプルな野球の方がいいという軽い気持ちで始めました。でも実際、ルールは野球の方が難しかったです。」と話す。周りからのその言葉の裏には、大嶺さんの素質を見抜き期待の気持ちもあったのではないだろうか。
そして小学校2年時に「八島マリンズ」に入団。元々肩が強く、3年生の頃から6年生に混ざって一軍Aチームで活躍した。ピッチャーは5年生から始める。学童野球は軟式だったが中学生に上がると硬式野球に転向し、硬式ポニーリーグの「八重山ポニーズ」で投手として活躍する。そして2003年、中学校3年生時にはポニーリーグ世界大会3位という素晴らしい成績を残すことができた。その年、日本がホスト国になり会場も沖縄開催という幸運にも恵まれる。「同県で4チーム選出される年だったので、とてもラッキーでした」と大嶺さん。


■本格的に野球をしよう。そして甲子園を目指そう

その後、小学生時代より指導を受けた監督の強い勧めで沖縄県立八重山商工高等学校に進学し、中学校からの同志とともに離島から甲子園を目指そう!という大きな目標をたてた。「石垣島らしく、厳しいながらも楽しく練習をしながら甲子園に行こう!とチーム一丸となっていました。」
3年生が引退した高校2年生の秋、すでにエースとして活躍していた大嶺さんは「何がなんでも甲子園に行こう」と挑んだ沖縄新人戦大会では3位だった。この年の九州大会が沖縄県で開催されたことで、幸運にも沖縄県の九州大会出場枠は4枠。新人戦大会3位の八重山商工高等学校が見事九州大会出場を決める。春の選抜大会に21世紀枠で出場することを目指し「1試合でも多く勝つ」という思いで臨んだなか見事準優勝という成績を残し、実力で甲子園の切符を獲得したのだ。
2006年の選抜高等学校野球大会は、一回戦高崎商業戦で17奪三振という記録を打ち立て、プロからの評価も高くなる。その後、横浜高校に6−7と惜敗をしたが、横浜高校が決勝で21−0の大差で優勝したことで、八重山商工の印象を強く残せた大会となった。
夏の沖縄大会もその勢いのまま優勝し甲子園出場を果たす。春夏2季連続出場は沖縄県の離島勢として初めてだった。その年の甲子園は決勝で早稲田実業と駒大苫小牧の再試合となった話題の大会。そこでは同大会最速となる球速151kmを記録した。打撃面でも5番打者として活躍し、プロのスカウトに注目されることとなる。


■プロ野球選手を意識しはじめた球速と甲子園

中学時にポニーリーグで世界大会優勝はしたものの、当時は離島出身の自分の実力が全国でどの程度なのかわからなかったために、プロに進もうということは考えてすらいなかった。肩は強かったが、体の線が細く高校入学当初は球速が120km程度。「九州遠征に行った先で、監督に『足を上げた時、そこで止めずに一連の動作で投げてみた方がいいんじゃないか』とワンポイント指導されました。実際にやってみると、なぜかみんなが空振りをしていったんですよね。」後に関係者から球速が138kmまで上がっていたと聞かされ、「自分でもびっくりしました」と大嶺さん自身が驚いたそうだ。その後も球速は伸び、1年生で143kmを記録する。それでもプロへ進むという意識は全くなかったが、速球投手であるという確信を持てた。

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■プロ野球での活躍

高校での活躍が認められプロ野球から注目の的になると当然高校3年時のドラフトでは1位指名が確実視され、福岡ソフトバンクホークスの単独1位指名が予想されていた。高校時代に怪我をした時にも福岡ソフトバンクホークスだけが気にかけてくれていたということもあり気持ちも決まっていた。しかしドラフト会議当日、1位指名を公言していなかった千葉ロッテマリーンズから1位指名を受け抽選になった結果、千葉ロッテマリーンズが交渉権を獲得することとなる。この時大嶺さん自身が、“1年後の福岡ソフトバンクホークスからの指名を待つ”という決断をしたことで、当時のバレンタイン監督自身が石垣島に来島、直接交渉が行われた。その後時間はかかったが入団を決意。プロ野球選手となった。

プロ野球選手になり、春のキャンプから合流。球速も4月のファーム戦で150kmをマーク、速球投手として注目される。そして1年目の4月30日、埼玉西武ライオンズ戦でプロ初先発。勝敗こそつかなかったが、全国放送されたNHK総合テレビで、第1球にいきなり147kmを記録。その後も最速151kmを記録し、鮮烈な印象を残した。翌年2008年7月から先発ローテーションの一角を担うようになったが、なかなか勝ち星に恵まれない状態が続いた。そして7月24日、北海道日本ハムファイターズ戦でダルビッシュ有投手と投げ合い初勝利。大嶺さんは「プロ野球人生で一番記憶に残っている試合です」と当時を振り返った。
2009年5月13日の対ソフトバンク戦では6安打に抑えプロ初完封を果たす。その年は先発要員として5勝を挙げ、2015年は8勝を挙げた。その後2019年には全治12ヶ月の怪我でシーズン登板はなく、プロ野球人生後半は怪我との戦いもあり苦戦が続いた。

そして2022年、中日ドラゴンズに移籍したのち引退。プロ通算29勝の記録を残した。


■自分が本当にやってみたいことをやるほうがいい

怪我が続き、プロ生活終盤は“セカンドキャリアを考えないといけない”と思い始めたという。「現役中は真剣に野球と向き合っていたものの、中日ドラゴンズに移籍した頃から『辞めるなら格好良くやめて好きなことをやりたい』と思い始めたのも事実。中途半端に野球を続けてもチームにも失礼だという気持ちもありました。」

戦力外通告を受けた時、2015年に結婚した奥様の存在は大きかった。覚悟を決めていたこともあり、「これからはやりたいことを妻と共にやっていこう」と前向きに受け入れることができた。引退後、奥様と起業した会社の代表権を譲り受け株式会社O Hの代表取締役として忙しい毎日を過ごすこととなった。野球から離れ、アスリートから経営者という立場になったことで、大嶺さん自身も変化を感じた。

——自分が本当にやってみたいことは何だろう。

飲食の道に進む人は多いが、それだけではなく、現役時代から感じていた食生活の重要さを広めたいと考えたのだ。「肩と肘の故障はあったものの、筋肉系の怪我が一度もなかったのは常に筋肉を強くする食生活をしていたから。食生活も広めながら飲食をやってみようと思うようになりました」と語る。

共同経営で始めた飲食業を2023年の9月に離れ、株式会社OHの飲食部門で東京・江東区内で料理店「創作ダイニング HA-LY 爬竜船」をオープンする。「HA-LY」は沖縄各地の漁港で行われる競漕(きょうそう)とその祭りを表すハーリーから。店の自慢は、地元石垣島直送の石垣牛ハンバーグと石垣牛ステーキ、そして「勉強のため」と本場・名古屋で修行を積んだ手羽先。

大嶺さんは野球教室やイベント以外は常に厨房に立ちながら接客までこなし、お客様とコミュニケーションを図っている。またSNSで大嶺さんの出勤日も知ることができ、ファンにとっては考えられないような大サービスだ。

また、”やりたいこと”。これは以前から考えていたアパレルブランドの立ち上げ。「エルーシャ」というブランドを立ち上げネットで購入ができるようにした。ロゴマークも現役時代に手術した肘をキャラクターにしたユニークなものだ。


■ドラフト1位のプライドがようやく捨てられた

プロ野球に入団した時から、ドラフト1位という肩書きがありプライドを持たざる得ない日々だった。何かあると「ドラ1」と言われ常にプレッシャーと闘い、そのワードが邪魔をしていた。引退してようやくそのプライドが捨てられたという。プライドを捨てたことにより、野球界に残るという気持ちもすっきりとなくなった。「自分の好きなことをやろう、そして楽しもう。そう思う一方で、プロ野球選手だった頃には感じなかった、たくさんの人に支えられていたことを感じ、そういった方々に恩返しをしていこうという気持ちも芽生えました。」

食生活で学んだことを広めていこうと「子ども食堂」というイベントを沖縄で開催したり、今まで大嶺さんを応援し続けていた人たちやファンの方とも自身の店で気軽にコミュニケーションをとっていったり、野球界以外の方々に会う機会も増えた。やりたいことができる今の生活がとにかく楽しいのだという。

特に沖縄には思い入れがあり、身体能力が高い沖縄の子ども達に食生活のアドバイスをすることで怪我のない強い体になってもらいたいという思いも人一倍強い。「野球のプレーだけを教えるのではなく、体のケアまでトータルでアドバイスをしたいと思っています。今はまだ引退して1年経ったばかりでまだまだですが、将来必ず恩返ししたいです。」

プロ野球の世界は、引退後苦労しているひとを何人も見ている。そんなプロ野球選手にアドバイスするとしたら、「一度野球を離れて、自分のやりたいことを見つけとにかく動いて勉強して、やるべきだ。若いうちに積極的に外に出てチャレンジして欲しい。いろんな人に会ってヒントを見つけてほしい」と大嶺さん。引退してからいろんな人に支えられていたと改めて感じたという。

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