足立 和弘『アスリートの経験は社会に出てから絶対に役立つ。社会人にも伝授していきたい』


足立 和弘
1977年生まれ。京都府京都市出身。通っていた小学校の先生の勧めで「待鳳(たいほう)スポーツ少年団」に入りバレーボールを始める。地元の公立中学校から、京都の強豪校である洛南高等学校に進学。その後京都産業大学に進みエースアタッカーとして活躍。卒業後はNECに入社し8年間Vプレミアリーグでプレー。天皇杯全日本バレーボール選手権大会で2回優勝。2007年に選手引退。引退後はNECにて社業に専念し現在も勤務中。


これまでのキャリア

●1993年 京都洛南高等学校でインターハイ出場
●1995年 京都産業大学でインカレ出場
●1999年 日本電気株式会社(以下「NEC」)に入社。
_■■■■■バレーボールチームNECブルーロケッツに入団

●2007年 バレーボール選手引退。  

 


■バレーボールとの出会い

バレーボールと出会ったのは小学校5年生の時。身長が高かったこともあり学校の先生に誘われたことがきっかけだった。小学校低学年の頃はサッカーをメインにやっていて、将来はサッカーをやり続けたいと真剣に考えていたが、中学校からはバレーボール一本に絞った。
中学校は地元の旭ヶ丘中学校に進む。バレーボールの強豪中学校ではあったが全国大会出場は叶わず、最高成績は近畿大会出場。それでも足立さんの活躍は注目され、多くの高校から誘いがあった中で京都の強豪校である洛南高等学校へ入学する。入学当時から身長185センチでエースとして活躍。その洛南高等学校には、中学校時代に全国優勝した有望選手が集まってきており常に優勝候補と言われていたが、3年間で全国優勝という目標を達成することはできず、春高バレーでベスト16が最高成績だった。

当時の男子の有望選手は大学に進学してから企業チームに入る人が多く、足立さんも同様に大学への進学を志望していたため、地元の京都産業大学へ入学する。大学の4年間は関西1部リーグで活躍したが優勝には届かず、リーグ戦の最高成績は3位だった。ここでも足立さんのプレーヤーとしての評価は高く、いくつかの企業からオファーを受け、当時日本一を何度も経験していた関東の企業NECを選ぶ。入社前年も優勝している日本一のチームだったので決断に迷いはなかった。
2000年、NECに入社すると同時にNECブルーロケッツへ入団し、レフトのポジションで活躍した。バレーボールのトップリーグ(現在はVプレミアリーグ)チームへの入団は例年全国の大学から10名前後しか入団できない大変狭き門で、足立さんはその中の一人だった。NECの場合、基本的に会社へは出社せず府中の体育館で終日練習を行うという毎日だった。「所属こそパートナービジネス本部であったが出社して業務を行うことはなく、バレーボールに専念できる恵まれた環境でした。」

ただ、優勝争いをするチームであるが故に毎年2~3人が戦力外となる大変厳しい環境であることを入団後に知ることとなった。チームの選手人数は20名前後、そこから試合のベンチに入れるのは12名ということもあり、先ずはベンチ入りを目標にしていたそうで、『今まで以上にポジション争い等で負けないように必死でした』と話す。


■不完全燃焼で引退、そして第二の人生を

足立さんがプレーしていた8年間は天皇杯全日本バレーボール選手権大会で2度優勝したが、Vリーグで優勝することはできなかった。『Vリーグのリーグ戦で優勝したかったと今でも思います』
入団当初のポジションはレフトプレーヤー(サイドから数多く打つポジション)として活躍をしていたが、現役時代の後半は怪我によりレシーブ専門のリベロとしてプレーしていた。しかし、現役時代終盤は会社の業績により、バレーボール採用も少なくなり戦力外となる選手も増えていた。自分自身の体力の衰えも感じ始めていた2007年、黒鷲旗(くろわしき)全日本男女選抜バレーボール大会を最後に戦力外通告を受ける。その翌年チームは廃部となった。

チームから戦力外通告を受けた後、NECレッドロケッツ(女子バレーチーム)のコーチとしてのオファーを受けたが、一旦バレーボールから離れ社業に専念しようと決意。
NECへの入社はバレーボールが強いということだけで決めたが、選手引退後の優遇措置はなく、新卒社員と同じ立ち位置での業務スタートだった。新人研修と配属先の研修が1年間続く。その環境に馴染めず選手引退後に会社を辞める人も半数はいたという。一緒にスタートした新卒社員の中にはとても優秀な人材もいて、その中でどうやって自分をアピールしていくかなど悩んだり試行錯誤していた時期もあり、『実は配属1年目は何度も辞めようと思っていました』と当時を振り返る。でもそんな時こそ『社業に専念すると決めた以上、どんな環境下であっても社会人としての基本と学ぶ姿勢を忘れない』と自分に言い聞かせ、周りに追いつくために沢山勉強してTOEICを受けたりもした。誰とでも積極的に話せる明るいキャラクターを武器に先輩社員の方の営業に積極的に同行して仕事を覚えていった。


■自分のアピールポイントはコミュニケーション力

1年間の配属先の営業研修が終わる頃、『自分の強みはコミュニケーション力』と自信が持てるようになり、社内・社外問わず沢山の人と話す機会を作った。情報や知識も増えていき営業職としての成果も出て更に自信が付いた。また、実際の営業現場での商品開発において、自社製パーツを使用して取引先の要望に沿った機械装置を一緒に作っていく過程は楽しくやりがいを感じる業務でもあった。
NECという企業は創業120年を超え、情報通信サービスの提供や情報通信機器の製造・販売を中心に行うIT企業。例えば、携帯電話の基地局は日本の3社が行なっているがその中の一つがNECである。選手を引退して一から仕事を学び、その過程で改めて気付く自社の魅力や業務の楽しさから、自然と仕事へのモチベーションも上がっていった。


■好きにやれ自分の思うままにやれ、何かあったら責任を取る

上司の魔法の言葉によってさらにやる気が出た。
お客様のニーズをしっかりと聞き、求めるものをゼロから作り出し提案していく。今は、NECプラットホームズ株式会社のものづくり営業推進室 エキスパートとして活躍するなかで、ようやく会社の戦力になっていると実感してきている。またバレーボール女子チームのコーチも社業の一つとして関わり始めた。
NECには昨年もリーグ優勝を果たした「NECレッドロケッツ」という女子チームがあり、未来のアスリートを育てるための下部組織を持っている。GMをはじめ、元NECブルーロケッツの選手で現役社員の方がチーム運営を行っており、足立さんはアカデミーコーチも担当している。

 


■アスリートとしての経験を伝授していく

日本のバレーボールは企業がチームを運営し発展してきた。バレーボールのアスリートとして採用された選手は引退した後も所属企業で社業に専念できる環境があり、それは世界の選手から見ると大変恵まれている環境だという。しかし、社業に専念する時が来た時には一般入社の同年代と比較すると業務レベルではかなり遅れていることも事実。「最初は苦労することもあります。でもチームスポーツを経験している人は自然と周りとのコミュニケーションを取る力も身に付いているので、組織に溶け込みやすいハズ。積極的に自分から動いてみることを心がけて欲しいです。」

足立さん自身も、15年勤めてきて組織で働くことにも自信がついた。「これからも一人で仕事をするのではなく、会社組織としっかりコミュニケーションを取りながらビジネスを進めていきたいと思っています。」

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