葛城 育郎『「人脈よりも人徳を」 プロと言う肩書はプロのときだけ。自分自身を見つめ直すことが大事』

葛城 育郎
1977年生まれ。大分県出身。小学校4年生の時、親の勧めで野球をはじめる。中学時代は軟式でピッチャー。高校は倉敷商業高等学校へ進むが3年間で甲子園出場は果たせず。大学はスポーツ推薦で立命館大学へ。一年生の秋からベンチ入り、2年時からレギュラーを獲得。関西学生野球では外野手としてベストナイン3回選出。4年時にはMVP獲得。1999年4年時にオリックス・ブルーウェーブに2位指名で入団。2001年時は1軍レギュラーへ定着。130試合に出場。2003年11月にトレードにより阪神タイガースに移籍。入団1年目に結果を残すが7年間在籍して2011年、シーズン終了後に引退。引退後1年半の飲食業修行後、2013年に兵庫県西宮市で「酒美鶏 葛城」をオープン。オーナシェフとして活躍。2021年から経営と並行しながら地元の報徳学園高等学校の硬式野球部でコーチを務めている。


これまでのキャリア

●1993年 倉敷商業高等学校へ入学
●1996年 立命館大学へ入学
●1997年~ 関西学生野球リーグでベストナイン3年連続選出
●1999年 関西学生野球リーグ春季MVP受賞
      関西学生野球リーグ 春秋優勝
      NPBドラフトでオリックス・ブルーウェーブから2位指名
●2000年 オリックス・ブルーウェーブに入団
●2003年 11月にトレードで阪神タイガースに移籍
●2011年 自由契約になり引退
●2013年 「酒美鶏 葛城(さけびどりかつらぎ)」を開業
●2021年 報徳学園のコーチに就任


■野球は高校までやり切ればいいと思っていたが

親が転勤の多い会社勤めだったということもあり、大分・福岡・佐賀を転々とすることになる。今では学童野球が盛んで低学年から野球を始める環境があるものの、行く土地土地でそういった環境があるわけではなかった。なかなかきっかけが掴めなかったが、小学校4年生になったとき佐賀県で親の勧めもあり学校のチームで軟式野球をはじめることになる。しかしまた転勤で岡山県倉敷市に移り住むが、学童野球がなかった。そしてはじめたのがソフトボール。
「仕方なくソフトボールをはじめたけど、やはり野球にこだわり硬式チームを探し、入部しました。」と葛城さんは幼少期を振り返る。
平日はソフトボール、土日は硬式のボーイズチームと野球漬けの日々だった。
中学生になると硬式のボーイズにそのまま所属するのも可能だったが、倉敷市は軟式野球が盛んだったこともあり、学校の軟式野球部に入部。とくに県大会へ進むこともなく3年を過ごしたが、サウスポーのエースとしての活躍が目に留まり、倉敷商業高等学校へスポーツ推薦で進む。
「甲子園を目指し3年間必死でがんばりました。でもベスト4がやっとで、出場は果たせず終わりました。最後の夏の県大会後は燃え尽き症候群になり、この先野球を本格的にやろうという気にはなれませんでした」と葛城さん。
「しかし将来きっとプロ野球に進める選手になる」と親と高校の監督の意向もあり野球を続けることに。商業高校だったので就職するという道も考えたが、立命館大学出身の監督の勧めでその大学のセレクションを受けることを決意した。
「推薦をもらったので、とにかく受かりたい一心で短期間で英語と国語を集中して勉強しました」と葛城さん。そしてセレクションではピッチャーとして力いっぱい投げ140キロ台の速球を記録して見事合格。
しかし力を振り絞って投げたため肩を痛めてしまう。そして入学前に自己判断で肩の手術をすることに。大学へ入学はしたものの、手術後ということもありすぐにピッチャー練習もできず、また、監督に承諾を得ずに手術をしてしまったため春は下積み生活をして過ごすことになった。
ある時、監督からバッティングはどうだと言われチャレンジ。そして秋のリーグが始まる前に練習試合で打席に入りホームランを打つ。打撃が認められ秋からはベンチ入りを果たす。


■伝説のキャプテンからプロ野球の道へ

「今振り返れば肩を壊してなければバッターへの転向はなかった。」と葛城さん。
実は高校時代からクリーンナップを打つバッターでもあったためパンチ力はずば抜けていた。そして2年生からはレギュラーとして大活躍。ただ、レギュラーになってからは色々野球部の悪いところも見え始め、このままでは勝ちきれないと思った。そういった想いをもっていた矢先、ちょうど2年時に監督と部員が指導方法を巡って衝突。その際に両者の間に立って事態を収束。4年時には主将にはなったがこの時期(2年生)からキャプテンシーを発揮する。そして未だに語り継がれている話で、関係者から「伝説のキャプテン」と呼ばれるようになった。
関西学生リーグでは2年生から3年連続でベストナインを獲得。4年時の春にはMVPにも選ばれる。チームは春秋と関西学生リーグで優勝し、全日本大学野球選手権や明治神宮野球大会に出場。明治神宮大会では2回戦で敗れたものの、後にソフトバンクホークスに入団した新垣投手からホームランを打つ。プロの道を意識し始めたのは4年時の春のリーグ戦の時期。「実は今まで、中学から高校へそして大学まで野球を続けたのは将来のためで、決してプロ野球選手になるという夢はもっていなかった。」と葛城さん。ただ4年時に初めてプロ入りを意識し始め決意する。
当時立命館大学のエースは田中総司選手。ダイエーに1位指名された選手である。
各球団のスカウトが視察に来ていた。そこで、キャプテンであり学生日本代表にも選ばれていた葛城さんは初めてスカウトの目に留まる。そしてスカウトと話すようになり、スカウトの人たちに「がんばったらプロにいける」と言われリーグ戦で必死にがんばった。実は就職も何社か決まってはいたが、プロ1本に絞る。
当時のドラフトは大学生は逆指名が出来る。オリックス・ブルーウェーブを逆指名し、ドラフト2位でオリックス・ブルーウェーブから指名を受ける。当時のオリックス・ブルーウェーブは近い将来イチロー選手が大リーグに移籍する可能性もあり、強肩で長打力のある選手を探していたのもグッドタイミングだった。


■プロ野球選手としての活躍

2000年から念願のプロ野球選手としてのスタートをきる。
オリックスではレギュラーシーズン中盤まで2軍で過ごすが、後半からは1軍へ昇格。そして2本塁打を記録する。またフレッシュオールスターでは右翼手としてフル出場も果たす。2001年は長打力を武器に1軍でのフル出場。14本塁打を記録して規定打席にも到達。2003年も114試合に出場して活躍をしたが、投手力強化のため阪神タイガースとのトレードで移籍。移籍後の2004年は阪神タイガース公式戦で77試合に出場。ただ2005年から怪我も多くなり、それ以降は毎年セカンドキャリアを考えるようになった。


 ■意外に野球選手の平均寿命は5年~6年

成績不振が続くと、次のことを考え始めるのがプロの世界。
活躍している人ばかりを見ていると選手寿命は長く感じられるが、大半の選手は5年から6年で球団から判断される。
2005年ごろから怪我が多くなり、またバッティングでの不振が続きその年から「契約更新がこわくなった。いつ戦力外通告を受けるか不安だった。でもセカンドキャリアを考えるきっかけにもなりました」と葛城さん。しかし2007年は見事に復活。シーズンでは一軍でのスタメンも多くなり9月単月でみると5番打者として打率3割を超えた。そして2008年再びスタメンの機会が増え活躍。ただ2010年はオープン戦こそ好調だったものの6月まで不振が続きそれ以降1軍での出場機会が減っていった。そして2011年には1軍での出場機会がなく自由契約となり、11月に引退を決める。
代打や守備固めまでこなすプレーヤーとして阪神ファン・オリックスファンに愛されていた。オリックス時代にはチームメイトだったイチロー選手にちなんで「イクロー」という愛称で親しまれていた。


■プロ野球業界からは離れる決意をしたが繋がりは大切に

「プロ野球の組織にストレスを感じていました。引退を決めた時、球団からお誘いはあったもののコーチやスタッフとして残ることは全く考えませんでした。誰かに動かされるのではなく組織を自分でつくっていきたいと思いました」と葛城さん。そして起業を決意する。当初は飲食業ではなく、野球塾を自分で作ろうと思ったが、お世話になった方々に相談をしたところ意外にリスクがあることに気づき断念する。それでも野球と関わりながら仕事をしたいと思っていた。
「野球をやらなくても野球に関わることが出来るはず。野球選手やお世話になった方々が集まる場所をつくればいいと思いつきました」
選手時代を色々振り返り一つのゴールに辿り着く。「選手時代はチームメイトと必ず食事をするんです。甲子園周辺だと熱烈な阪神ファンも多く、お店にユニフォームを着ているファンの人がいるとそのお店には入れませんでした(笑)。だからプライベートでゆっくり楽しみながら食事できる場所を提供すればいいんだと閃きました」と葛城さん。
もともと飲食業に興味はあった。自分で考えて、誰にも邪魔されず自分の理想通り経営ができるお店作りをしたい。たしかにお店を見てもユニフォームや選手のサインは一切ない。
ファンはNGではないもののユニフォームでの来店はお断りにした。そうした方が現役選手や関係者は気兼ねなく入れるはずだと。
そして1年半の修行後、西宮に「酒美鶏 葛城」を2013年にオープン。
オープン当初から関西では数々のメディアに取り上げられ、阪神タイガースやオリックス・ブルーウェーブのOBや選手のみならず、お世話になった様々な人が訪れている。お店では調理・接客もしている。またアルバイトの従業員たちが社会に出て通用するように、人材育成もしっかりとしている。それも野球で培ったことを、お店での接客というものを通じてコーチングしているのも葛城さんらしい。


■正式に報徳学園のコーチになって野球に恩返し

葛城さんがもうひとつやりたかったこと。野球人口が減っている中、自ら指導してもっともっと広めていきたいということ。ただ元NPB所属選手は小学校・中学校まではコーチや監督として指導はできるが、プロアマ協定では高校球児や社会人を教えることはできない。しかしタイミングよく2021年2月にできた学生野球資格制度を通じて資格をとり、4月から正式に報徳学園のコーチに就任した。たまたま監督が大学時代の3つ下の後輩で、お願いされたということもあった。監督はなかなか相談する相手がいなかったため葛城さんはいい兄貴分として信頼されている。
2023年春の選抜大会に報徳学園が選ばれた。自身の高校時代に果たせなかった甲子園出場という夢がかなった。

「高校野球のコーチング、お店のスタッフの教育。これからも野球で培った知見でしっかりと人材育成をしていきたい」と葛城さん。

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