乾 絵美『2度のオリンピック出場から、プロ球団女性初のスカウト担当に』

乾 絵美
1983年生まれ。兵庫県出身。大学を中退し、日立&ルネサス高崎女子ソフトボール部(当時の名称)に入部。上野由岐子投手とバッテリーを組む。2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックに出場し、それぞれ銅メダル、金メダルを獲得。翌年引退。2010年に、オリックス・ベースボールアカデミーのコーチに就任。2020年オリックス・バファローズのアマチュアスカウトグループ(関西地区・静岡県担当)へ異動。2022年からは、中国・四国地区を担当している。


これまでのキャリア

●神戸常盤女子高校を卒業後、東海学園大学に進むも中退し、実業団の日立&ルネサス高崎女子ソフトボール部に入部。チームに一つ年上の上野由岐子選手がいて、バッテリーを組むことに。
●2004年アテネオリンピック日本代表に選ばれ、控えの捕手として出場し、銅メダル獲得。
●2008年北京オリンピックでも日本代表に選ばれ、金メダルを獲得。
●2009年所属チームのルネサステクノロジ高崎事業所(この年、名称変更)で主将を務め、日本リーグ優勝で引退。
●2010年オリックス・ベースボールアカデミーのコーチに就任。
●2020年オリックス・バファローズのアマチュアスカウト(関西地区・静岡県担当)に就任。
●2022年からは、オリックス・バファローズのアマチュアスカウト中国・四国地区を担当。


大学中退から、オリンピック2大会連続出場へ

「乾絵美は、何か強い運のようなものを持っている選手だったと思う」。ソフトボールの元日本代表監督、宇津木妙子さんに、乾さんのことを伺うと、開口一番、そんな言葉が返ってきた。二人が初めて出会ったのは20年前。家庭の事情で大学を中退しようとしていた19歳の乾さんは、ソフトボール部の監督を通して、実業団のトップチームだった日立&ルネサス高崎(当時の名称)への入部を願い出た。新しいシーズンの登録もすでにほぼ終わっていた時期。大学までそれほどの実績を残していなかった乾さんを、トップチームが受け入れたのには事情があった。チームには乾さんの一つ年上に、上野由岐子選手がいて、その剛速球を受けるキャッチャーが怪我などにより足りていなかったのだ。
「とはいえ、エリートしかいないような実業団に、体格が良い捕手というだけで、無名と言ってもいい大学生が、何が何でも入りたいと売り込んできたのには驚いた。今どき珍しい強い信念を感じて、入部させたのだけれど、いやもう、上野のボールなんて捕れたものじゃない。それでも日本リーグの初戦でマスクを被らせたら、何度もパスボールして、たいへんなデビュー戦だった」と宇津木さんはなつかしそうに当時を振り返った。
満身創痍になりながらも、弱音を吐かずに体を張って、日本のエース上野投手の球を黙々と受け続けた乾さんは、やがてチームだけでなく日本代表のユニフォームを着て、国際大会でも上野投手とバッテリーを組むことになっていく。乾さんは言う。
「高校生の時、テレビでシドニーオリンピックのソフトボールの銀メダルを見て、すごいなぁと思っていました。大学を辞めることになった時、シドニーオリンピックの代表監督の宇津木さんのところで、ソフトボールができたらこんな嬉しいことはないと、勇気を出して入部を願い出ました」。身の程知らずと思いながら、断られても失うものはないという覚悟があった。結果、乾さんは一生の財産となる3人と出会うことができた。上野由岐子投手、宇津木麗華監督(元日本代表選手、東京オリンピック代表監督)、そして宇津木妙子監督(シドニーオリンピック、アテネオリンピック日本代表監督)である。
「上野さんが投げれば、毎回完全試合でも当たり前という雰囲気になるので、ヒット1本を打たれる怖さを常に感じながら、必死に受けていました。だからこそ、一球の重みや一瞬の判断の大切さを学ぶことができたとも思います。上野さんは、日本が世界選手権やオリンピックで世界一になるために、自分がどう進化していかなくてはならないかをいつも考え、新しいことを試し、使命感を持って挑んでいました。天才というだけでなく、努力することの天才でした」。
乾さんは、上野投手と実業団でバッテリーを組んだことをきっかけに、2度のオリンピックに出場。「アテネも北京も、ブルペン捕手として、本当にいい仕事をしてくれた」と、宇津木妙子さん。北京オリンピックで金メダルを日本が勝ち取ったときは、乾さんはベンチから真っ先に駆け寄りって上野投手を肩車。メディアの写真の真ん中に納まり、翌朝の新聞の一面に大きく掲載された。「実は最後は上野さんにカメラが集まるから、目立ちましょうって、狙っていました」。

 


引退の翌年から地元のプロ球団で、子供たちに野球指導。

北京オリンピックが終わり、その年はキャプテンとして国内大会の3冠を成し遂げた。「もうソフトボールは十分にやりきった」と引退を考えたが、チームの監督、宇津木麗華さんに諭された。「今までは自分のためにプレーしたが、最後は会社・チームのためにやりきろう」と決め、翌年もキャプテンを務めて、2年連続3冠を達成。ユニフォームを脱いだ。「辞めてからのことは、何も考えていなかった。ただ技術でやってきた選手ではないので、チームのコーチや学校の指導者のイメージは、自分でも持てなかった」。とりあえずの行き先に考えたのは、祖母が香川県で営んでいる民宿を手伝うこと。調理師の免許や運転免許を取ろうと計画し始めたとき、「オリックスのベースボールアカデミーのスタッフになりませんか」という話が来た。3か月後の4月から小学生男女を主な対象としたアカデミーが新設されることになり、野球かソフトボール経験のある女性のスタッフを探しているという。「兵庫県出身でソフトボールのオリンピック金メダリストの乾さんなら適任」と採用が決まり、野球の指導と週末の小学生のオリックス軟式野球大会運営などが引退後の仕事となった。子供たちは「幼稚園から小学2年」「小学3、4年」「小学5、6年」の3クラスに分かれ、乾さんは基本動作を教えた。やがて仕事は子供連れで球場に来てもらうためのファンづくり、地域振興が主となり、学校訪問や週末の大会の運営、中学硬式野球大会運営、野球教室などが加わった。
あるとき、「オリンピックの金メダリストが、今この金額の給料をもらっていることについてどう思うか」と聞かれた。そのときに初めて金メダリストの価値について考えたと乾さんは言う。「金メダルを獲ったからといって、引退後に何か優遇などしていただけるものなのか。ほかの金メダリストたちは、どんな待遇なのか、まったくわかりませんでした」。
地域振興の仕事を10年間やりきり、「もうそろそろいいかな」と思っていたとき、球団編成部の副部長から、話があると電話が来た。「ソフトボール教室でも頼まれるのかな」。そんなつもりで話を聞きに行った乾さんは、副部長からの一言に愕然としたという。副部長は「スカウトの仕事をしてみないか。世界で感じたことや経験を生かしてほしい」と、突然、前例のないことを切り出したのだ。

 


2人の恩師から、背中を押されての決断

「正直、びっくりしました。考えてみたこともなかったので、野球をやったこともない、ましてや男社会の野球界で、女性の私がスカウトなんてやっていいの? 冒険する意味があるのだろうかと、考え込んでしまいました」。乾さんは恩師である宇津木麗華監督と宇津木妙子監督に相談した。二人とも即座に「やってみたら!」と、ポンッと背中を押してくれたという。
「麗華さんからは、“何かあれば力は貸すし、サポートするから、思い切ってやってみればいいじゃない”と言われ、妙子さんからは“プレーだけで判断するのではなく、日頃の生活態度や人間性もプレーに繋がっていることも忘れないでほしい。ただ素直でいい人だけではプロの世界ではやれないので、自分自身としっかり向き合っているか、野球人としての取組み姿勢もしっかり見極めてほしい”と助言をいただきました」。
引き受けると覚悟を決めたら、スカウトとして、ここは見たいということ、大事にしていきたいこと、自分がやってみたいことが、いくつも浮かんできた。
一つ目は道具を大切にしているかどうか。スパイクシューズの履き方、グローブの扱い方など。「自分の道具をぞんざいにする選手は、いざというときの球際や勝負どころが、雑になる」というのがソフトボールのトップ選手を見てきて、感じていたことだった。二つ目は「技術よりもまず、その選手の持っている雰囲気を見たい。打席に入るときの目つきや、相手に向かっていく姿勢、マウンドでの立ち居振る舞い、ベンチにいるときの姿、表情など。プレーだけでないところが見たいなと」。
スカウトとしていつか球団の人たちに言われてみたいのは、「乾が関わった選手は、競技成績も良かったし、人としても球団にプラスになりそう。引退後もぜひ球団に残ってほしい」という言葉。プロ野球でずっと生活していくことのたいへんさを見ていて、思うこともある。「若い選手たちに対して、先々の役に立つような話ができる機会があればと。高卒の育成選手が数年で戦力外となったとき、球団として進学のフォローをしたり、社会に出ていくための教育をしたりという環境づくりにも関心があります」。スカウトの現場でも、学校の指導者から求められていることでもある。

 


■初めてのスカウト担当は、オリックスジュニアの教え子

スカウトに任じられて初めて担当することになった選手は、奇しくも乾さんが昔、オリックスジュニアで指導をしていた来田涼斗選手となった。ドラフト会議でオリックスは来田選手を3位に指名し、乾さんが交渉に当たって入団が決まった。「来田選手は小学校のときに初めて見て、6年生にしてはスイングも打席に入るときの雰囲気もすごいなという印象がありました。ソフトボールのアメリカ代表の3番打者(上野キラーと言われたメンドーザ選手)と似たオーラがあるなと。野球に対する気持ちも強いし、こうと決めたらやり抜く選手。将来的には、トリプルスリーも期待しています。オリックスのジュニアチームでユニフォームを着ていた選手が、またオリックスのユニフォームを着てくれたのは、とても感慨深かったし、初のスカウト担当が、子供の頃に少し関わったことのある選手だったことに縁を感じました」。スカウト2年目のドラフト会議では、またもオリックスジュニア時代に指導をしていた、野口智哉選手、池田陵真選手を球団が指名してくれた。
日常のスカウト活動は主に、担当する地域で行われる大会に足しげく通いながら、学校などでの練習にも顔を出すという地道な活動の繰り返しだ。「はじめましてと、ごあいさつに伺うと“北京五輪、観ていたよ”と、ソフトボール出身の私でも、温かく受け入れてくださって、ありがたいなと。本当にこの仕事は人と人とのつながりや、監督さんや先生方との信頼関係が大切だと感じています」
女性初のスカウトとしての責任も、自覚している。「他球団でも女性のスカウトを起用してみようということになったら、それが自分の仕事のひとつの評価だと思います。でもあまり気負わずに、肩ひじ張らずにやっていきたいという気持もあります」
今はスカウトという仕事をとことんやりきろうと考えているが、乾さんにはもう一つ、将来、考えていることがある。祖母や母が営んでいる香川県の民宿を引き継いで女将になることだ。四国霊場八十八ケ所、結願の寺「大窪寺」の前にあるその民宿の食堂には乾さんがオリンピックで活躍した時の写真が飾られている。常連客の間では「大女将のお孫さんは金メダリスト」として知られており、大女将や女将の人柄の温かさと、金メダリストに縁がある、ゲンのいい民宿として多くの人に愛されている。乾さんは、いつか三代目女将として、疲れた体を休めに来てくれたお遍路巡りの旅の方々を、明るい笑顔でおもてなしする日々もまた楽しみにしている。

 

 

 

 

 

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