谷川 烈『Jリーガーとして2度の戦力外通告。大学進学を経て就職。転職先で執行役員に就任』

谷川 烈。1980年生まれ。静岡県出身。Jリーグ清水エスパルスのジュニアユース、ユースチームに所属し、高校卒業後、清水エスパルスとプロ契約。4年間でJ1公式戦4試合1得点、J2公式戦20試合に出場するも戦力外通告を受ける。翌年渡米し、米国独立リーグでプレー。帰国してJ2水戸ホーリーホックに入団後8試合出場1得点も1年で戦力外通告を受け現役を引退。法政大学のキャリアデザイン学部に入学。卒業後、株式会社ブリヂストン入社。転職し、現在は株式会社グライダーズアソシエイツに勤務。


これまでのキャリア

●Jリーグ発足年度の1993年、清水エスパルスのジュニアユースに1期生として加入。
●U-15、U-16日本代表に選出される。
●静岡県立静岡高校卒業後、清水エスパルスとプロ契約。
●2001年シーズン途中、ヴァンフォーレ甲府(当時J2)に期限付き移籍。
●2002年のシーズン終了後、清水エスパルスから戦力外通告を受ける。
●2003年春、渡米。米国独立リーグUSLのニューハンプシャー・ファントムス入団。
●トップリーグMLSのチームへの入団が叶わず帰国。J2水戸ホーリーホック入団。
●水戸から戦力外通告を受け、24歳で現役引退。
●法政大学キャリアデザイン学部入学。
●2009年、新卒採用で株式会社ブリヂストン入社。ロシア事業部に配属。
●2015年、株式会社グライダーアソシエイツに転職。現在は執行役員を務める。


夢を叶えプロサッカー選手に

小学校のころから、将来はプロのサッカー選手になりたいと思っていた。Jリーグ発足の年に、清水エスパルスのジュニアユースチームに入団し、全国優勝を経験。U-15、U-16の日本代表にも選ばれた。高校は進学高に進み、サッカーは清水エスパルスのユースで上を目指すことにした。日本代表がワールドカップ出場を決め、Jリーグ人気も高まりを見せた時代。高校卒業後は、そのまま清水エスパルスのトップチームで、プロとしてサッカーを続ける道を選んだ。大学進学率の高い高校だったこともあり、母親からは進学も薦められたが、サッカーで勝負するのだという決意は揺らがなかった。念願の清水エスパルスに入団し、同じポジションを日本代表選手達と争った。充実した日々を送っていたが、出場の機会は少なく、レンタル移籍を経て4年目のシーズンを終えたとき、球団から戦力外通告を受けた。22歳の冬。高校時代の同級生たちはもうすぐ大学を卒業し、社会に出て行くという時節。谷川さんは移籍先を求めトライアウトを受け、テスト生としてJクラブのキャンプにも参加したが、契約には至らない。夢から覚めたように、現実的な不安に苛まれた。「自分の見立てが甘かった。強豪のエスパルスにいたから、どこかから声が掛かるだろうと安易に考えていました」。
そんなとき、知人から米国リーグのチームを紹介され「練習に参加して、MLSのチームとの契約に漕ぎ着けられたら」と単身で渡米を決意する。「代理人は立てず、書類作成などの事務手続きは全部自分でやりました。一人でアメリカに乗り込んだのは、少し英語ができたから。たいしてしゃべれたわけでもないのに」。エスパルス時代、チームが提供する英会話の勉強会を定期的に受講していたことも役立った。渡米後、独立リーグのニューハンプシャー・ファントムスでプレーしながら、MLSチームのトレーニングに参加し入団を狙うも、外国人枠の兼ね合いもあり契約には至らず。週3試合、アウェーゲームはバスで10時間以上かかることはざらで、まさに武者修行のような体験だった。


2度目の戦力外通告。全力でやりきったと心底感じ、引退を決意。

 帰国後、契約してくれるチームが見つかるまでと、古巣エスパルスのユースチームで調整の場を借りた。午前中は一人でフィジカルトレーニング、午後はユースの選手たちとボールを追う。先行き不透明。無所属。でもサッカーはやりたい。自分はこれからどうなるのだろう。「あのときが人生で一番苦しかった」と谷川さんは振り返る。「それでも、このままでは終われない。もう一度Jリーグでプレーするんだという、ぶれない目標があったから耐えられました」。
翌年J2の水戸ホーリーホックから声がかかり、Jリーグ復帰を果たすも1シーズンで8試合出場1得点という結果に終わり、2度目の戦力外通告を受けた。谷川さんは、そこで腹をくくった。「期限内にJリーグからオファーが来なかったら辞めよう。日本代表として世界を目指すというビジョンを持ってサッカーをしていたので、Jリーグよりカテゴリーを下げてプレーを続けるという選択肢は、もう自分にはありませんでした」。結局、オファーは届かず、現役引退を決断した。高校卒業から6年が過ぎていた。
「 “全力でやりきった”という気持ちはありました。お酒を飲みに行くことも、遊びに行くこともせず、空き時間にはひたすら筋力トレーニングやプールに通って、怪我もほとんどしなかった。それでも結果が出なかったのなら仕方ない。未練なく、そう思えました」


ビジネスで成功したい。そのために社会人入試で大学に進学。

谷川さんはすぐには就職せず、大学進学を目指すことにした。「将来これをやろうというプランは、まだなかったです。ないから大学に行こうと思いました。漠然とかっこいい仕事がしたいなぁと思っていました。何がかっこいいのかも分からずに。起業家とか、ベンチャービジネスについても勉強したいというのもありました。サッカーで世界を目指したのだから、今度はビジネスで大きなことを成し遂げたいという気持ちもありました」
高校時代の恩師に受験の意志を伝えると、励ましと共にたくさんの参考書をもらった。翌年の受験に向けて1年勉強するかと考え始めたところ、母親から「24歳の1年間を受験勉強に費やすのはそれはそれでもったいないので、社会人入試がまだ終わっていない大学を探してみては」とアドバイスを受けた。調べると、法政大学キャリアデザイン学部なら3月の試験にまだ間に合う事が分かった。「“デザイン”というので美術的な勉強なのかと思ったら、起業とか経営学といった、興味のあることが学べそうな学部だということが分かった。自分にピッタリだと思いました」
社会人入試なら試験科目は面接と小論文のみ。新聞社で論説委員を務めていた父親に小論文の指導をお願いした。「毎日、小論文を3~4本書いて、それを朝、父に渡すと、赤字を入れて夜には返してくれる。それをまた書き直すというのを繰り返しました」。文章力を鍛え、面接のトレーニングも重ね、3か月後に法政大学キャリアデザイン学科に合格した。
大学生活は本当に楽しく、学生ならではの時間を謳歌した。3年生の時に、貴重な出会いに恵まれた。ちょうどその年、インターネットリサーチ会社マクロミルの創業者である杉本哲哉氏が講師を務めるゼミがあり、谷川さんはそのゼミを専攻した。杉本氏からは、社会の構造についてやビジネスの面白さ、奥深さなど、非常に多くのことを学んだ。また、電通スポーツ局のサッカー事業部のインターンシップやJリーグのキャリアサポートセンターの手伝いも経験して、サッカーを競技者以外の観点から見ることもできた。「大学に行って一番良かったことは、サッカー以外にも自分が興味を持てるものが見つかったこと。グローバルに働きたい、いつか起業したいという意識が芽生えました」


世界最大手のブリヂストンに入社後、起業家を目指して転職。

就職活動は3年生の秋頃から始め、メーカー、商社、IT企業と様々な業種にエントリーした。杉本氏からは「初めは大きなところに入って、企業がどんなふうに回っているのかを見たほうがいい」というアドバイスをもらった。「グローバルに活躍したい」という理由で、タイヤメーカーの世界最大手である株式会社ブリヂストンを志望し、28歳で入社を決めた。
配属先は、ロシアとその周辺国における営業を担当する、ロシア事業部。「海外駐在ではなく、年に何回か旧ソ連のアゼルバイジャン、グルジア、ウズベキスタンといった国に行ってタイヤの営業をして、夜は現地のディーラーたちと酒を飲みながら『もっと買ってよ』なんて感じで仕事をしていました。国籍や価値観、文化の異なる人たちと交流が出来て、仕事はすごく面白かったし、本当に勉強になりました」。サッカーをしていたという経験は、世界中で営業トークとして生かすことができたという。最初の配属先で5年間。異動で国内営業の部署に移り1年間。6年間勤めたところで、谷川さんはブリヂストンを退職する。自分で事業を立ち上げられる力を付けたい、と考えるようになったのだ。大学時代からお世話になっていた杉本氏に相談し、スマートフォンアプリなどを手掛ける株式会社グライダーアソシエイツに転職した。杉本氏に「ウチに来い」ではなく、「いっしょにやろう」と言ってもらえたことが嬉しかったと語る。
「入社当初は結構ポンコツでした。そんなことも知らないのかと言うことばかりで。1年目は全然結果を出せなくて、必死に勉強しました。知識は足りなくても、お客さんに誰よりもたくさん会うということは僕にも出来る。“自分の武器は行動量だ!”と、まずはそこからやりました。その動きが奏功して2年目からは売上が伸びて、トップ営業マンになりました」
入社7年目には、執行役員に就任。経営メンバーに加わった。
「いつかは、自分で会社を立ち上げたいという気持ちは相変わらず持っています。その先にはJリーグのクラブのオーナーになるという大きな夢もあります。叶えるにはまだまだいろんな意味で実力が足りないので、自分を磨き、力を積み重ねて行きたいと思っています」。

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