中原 正義『今の自分があるのは、大事にしてきた人とのつながり』

中原 正義
1973年生まれ。佐賀県佐賀市出身。小学生4年生から柔道をはじめ様々なスポーツを経験。柔道の実績を上げながら砲丸投げにも挑戦。高校から始めたラグビーでは3年間花園全国大会出場。その後日本体育大学では主将を務めた4年時に対抗戦優勝。卒業後は東芝に進み社会人リーグ3連覇。U23日本代表主将。その後日本A代表に選ばれる。その後も事務所の顧問を務めながら、外部執行役員。そしてラグビーに関わる仕事で数々のマネージメント契約を結ぶ。


これまでのキャリア

●佐賀工業高校で3年間花園全国大会に出場し3年時はベスト16進出
1年生からレギュラーに
●高校日本代表に選ばれカナダ遠征にナンバー8として出場。5戦全勝
●日本体育大学ラグビー部1年時からレギュラーとして活躍
●4年時はキャプテンとして対抗戦優勝
●学生日本代表として学生ワールドカップでベスト8
●東芝に入社後3年連続日本一を経験
●U23 日本代表主将 日本A代表にも選ばれる
●九州コカ・コーラでプレイングコーチとしてトップリーグに昇格させる
●その後奥様が代表を務める会社の役員として数々のマネージメント契約を結ぶ


■最初に始めたスポーツは柔道だった

小学生時代からひときわ大きい子供だった中原さん。
小学4年生から始めた柔道では中学時代に重量級で佐賀県準優勝。
中学3年時に103キロあった体重を活かし将来は柔道で日本一になろうと思っていた。その時にたまたま助っ人で出てほしいと頼まれた佐賀市陸上競技大会の砲丸投げに出場し、27年ぶりの大会新記録で優勝。佐賀県大会にも出場して3位という結果を残す。その県大会入賞者の殆どが佐賀工業ラグビー部に勧誘されていた。
中原さんも佐賀工業の小城恩師に誘われて、柔道では無くラグビーの道に進むことを決意する。
名門佐賀工業に入学するもラグビーは全くの未経験、ルールすらわからない状態で6月の九州大会からスタメンで出場していた。
ポジションは体が大きかったこともあり、スクラムの二列目のロックというポジション。とにかく必死で練習して、前に前にというスタイルでラグビーに没頭した。高校3年間県大会優勝、花園全国大会に出場し、高校3年時には花園全国大会ベスト16の結果を残した。

日本代表時代

 


■高校・大学・社会人と日本代表を経験

高校での活躍が評価され、目標としていた高校日本代表に選ばれる。
日本代表の一員としてカナダ遠征に参加。ポジションはナンバー8。
そして5戦全勝という素晴らしい結果に貢献する。
当時のラグビーの有力選手は先ずは大学に進学して、中でも花形と言われた対抗戦グループで活躍するというのが夢という選手が多かった。
当然中原さんもその道を選ぶことになる。
日本代表選手ということで有力大学からの誘いがあった中、日本体育大学を選んだ。もちろん特待生入学である。
日本体育大学を選んだ理由は、社会人ラグビーの道が途絶えたとしても教職免許を取り教員として働いていけると思ったから。
平成四年、大学進学後は1年生からレギュラーに選ばれ、早稲田大学や明治大学が属する対抗戦グループで大活躍。そして4年生になると主将として200名以上を束ね、見事競合ひしめく対抗戦グループで優勝する。
その活躍が評価され、学生ワールドカップに日本代表の副将として出場。
イングランドやウェールズを撃破してベスト8という輝かしい結果を残した。
日本体育大学卒業後に株式会社東芝に入社。
社会人からも様々な企業から誘いを受けたが、最終的に東芝に決めたのは練習環境にあった。また東芝という大企業での終身雇用にも魅力はあった。
ラグビー人生は順調で、フランカーとして日本A代表にも選ばれ、またU23では日本代表主将も務めた。そして東芝時代には3年連続日本一という輝かしい結果を残した。
東芝時代、まだまだプロ化が進んでいない環境であったために、一般の社員と同じように8時から17時まで就業し、その後夜遅くまで練習という日々ハードなスケジュールだった。
「もっとラグビーに集中できる環境はないのか・・・」、「ラグビーを通じて色んな方々と人間関係が構築できている、この関係を活かしながら一生ラグビー人生を歩んだ方が自分には向いている」と思い始めた。
このまま東芝でビジネスマンとして出世をしていくという事も一時期考えたが、大きな決断をした。

コカ・コーラ時代


■7年間在籍した東芝を離れることに

平成15年に東芝を退社することをきめた。
大きな理由は、生まれ育った九州にあるコカコーラウエストジャパンにヘッドハンティングされたからだ。当時は下部リーグであったチームの立て直し、トップリーグに昇格させることを目標に試行錯誤しながら独自の手法でチームを再生していった。
そしてプレイングコーチも兼ねながらトップリーグに昇格という目標を見事に達成させる。ここでコーチングの楽しさを知り、生涯を一社に留まることなく、コーチングをビジネスとして考えるようになった。ちょうどコカコーラウエストジャパンに入ったタイミングでマネージメント会社を経営するパートナーに巡り合ったことも大きな要因。
結婚後はマネージメント会社の顧問となり、コカコーラウエストジャパンを退職後コーチングに専念するためにプレーヤーは引退した。
4年間在籍したコカコーラウエストジャパンを退職して新たなチームにコーチングのオファーを出し始める。

平成19年7月からは関東学院大学ラグビー部アシスタントコーチに就任。
また平成20年8月より帝京大学ラグビー部フォワードコーチに就任。
コーチ就任1年目から帝京大学を大学選手権で初の準優勝に導く。帝京大学は翌年の平成21年から大学選手権9連覇を達成しているが、初年度の準優勝から3連覇を達成した4年間を帝京大学の非常勤講師として勤めながら、常勝帝京大学を築き上げた。
大学でのコーチングの活躍が認められ他チームからのオファーも多数あった。
その中で対抗戦グループの明治大学ラグビー部のFWコーチに就任した。
明治大学 = 重戦車フォワード・・・ この復活といのが最大の目標であった。
スクラムが強くなければラグビーは勝てない。ラグビーの核となるフォワードの専任コーチであった。大学で一番のレベルになれば必ず優勝は見えてくる。
トップレベルの選手の実力は基本的にはどこも変わらない。中原さんのコーチング理論は、トレーニングの仕方とかきめ細やかに指導していけば強くなる。
身体の大きさではなく筋肉の質。全員が大きくはなかったもののトレーニングの質をトレーナーと目を光らせながら比重を置くというもの。
特にトレーニングの比重をあげスクラムやラインアウトモールの技術の向上に拘って指導していた。そして1年目で対抗戦優勝という見事な結果を出せた。
その後、明治大学のFWコーチは2年で役割を終え、現在は日本医科大学ラグビー部コーチとして招かれ医科歯科リーグのヘッドコーチとして活躍中。

帝京大学コーチ時代 優勝後


■大事にしてきた人とのつながり

「とにかく人のつながりを大切にしてきた」と中原さん。
それは中学時代に始まり、高校でのラグビーの恩師や友人、大学でお世話になった人たち、もちろん社会人でも。
誰にもできそうなことだが、ずっと繋がりを持つのは実は難しい。
社会人になって特にセカンドキャリアを考え始めてから、一人一人の付き合いを大事にしてきたという。
実はラグビーのコーチングを専門で渡り歩く人は少ない。自分独自のコーチング理論を磨き上げブラッシュアップしていき、コーチングを専門職にする人が増える環境を作っていきたいと考えている。
今でこそプロ化が進み、セカンドキャリアをしっかりと考えていかなければならないラグビー業界。コーチングに限らず起業でもいい、様々なフィールドでラガーマンが活躍してほしいと願っている。

オールブラックスとフィジーのコーチと共に

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