大村 加奈子『時間の量は変えられなくても質は変えられる 限られた時間をいかに過ごすのかが大事』

大村 加奈子
1976年生まれ。京都府京都市出身。中学校1年生からバレーボールを始める。京都府立北嵯峨(きたさが)高等学校では春高バレーでベスト4に進出。全日本ジュニアのメンバーに選出されアジアジュニア選手権で準優勝を経験。高校卒業後、ダイエーオレンジアタッカーズ(当時)に入団。1997年に全日本メンバーに初選出されワールドグランプリ大会に出場し、2004年のアテネオリンピックにも出場した。2007年久光製薬スプリングスでVプレミアリーグ優勝。同シーズンの日韓トップマッチ、第56回黒鷲旗(くろわしき)大会も優勝し三冠を達成する。その後も全日本メンバーとしてワールドカップ、2008年北京オリンピックにも出場した。2009年9月、京都府教育委員会の教員採用試験を受験し、特別免許状により2010年4月から母校である京都府立北嵯峨高等学校に教員として着任することが決まり、2010年3月に現役を引退する。


これまでのキャリア

●1994年 春の高校バレーでベスト4
□□□□□全日本ジュニアに選出されアジアジュニア選手権準優勝
●1995年 ダイエーオレンジアタッカーズに入団
●1997年 全日本メンバーに選出 ワールドカップに出場
●2004年 アテネオリンピックに出場
●2007年 久光製薬スプリングスでVプレミアリーグ優勝
●2008年 Vプレミアリーグ230試合に出場し特別表彰受賞
□□□□□北京オリンピックに出場
●2010年 バレーボール選手引退
●2010年 京都府立北嵯峨高等学校に教員として着任


■先生から勧められたバレーボール

本格的にスポーツに挑戦しようと思ったのは中学生になってからだった。中学校入学時、身長が180センチほどあり、最初はバスケットボールをやりたいと思っていたが通っていた中学校にバスケットボール部がなく、姉が所属していたバレーボール部に入る。身長が高かったこともあり、当時からJOC(日本オリンピック委員会)の全日本ジュニア最終選考会に選ばれるが、まだ技術面に課題があるという理由で選出されなかった。
高校の進路相談の時点ではまだバスケットボールへの想いがあり、バスケットボールの強豪校に行きたいと先生に相談したが、「性格的にネットを挟んだバレーボールの方が向いている」というアドバイスを受け、バレーボールで進学することを決意する。
私立の強豪校がひしめく京都府の中で公立の北嵯峨高校に進学し、3年生の時に全国春高バレーボール大会に出場。同校初のベスト4進出に貢献。練習は厳しかったが課題だった技術面も成長し、全日本ジュニアのメンバーに選出され、1994年アジアジュニア選手権で準優勝の結果を残した。
高校卒業後の進路は、当初大学進学を希望していた。「将来は警察官か教員になりたいと思っていたので大学進学を希望していました。」
しかし、それまでの活躍もあり、当時の強豪企業チームだったダイエーオレンジアタッカーズからオファーを受け、バレーボール選手を続ける決断をする。入団から2年後の1997年に全日本代表メンバーに初選出され、ワールドグランプリで国際大会に初出場。センターもレフトもこなせる身体能力の高さ、持ち前の跳躍力で活躍するも、膝への負担から右膝の手術を2度行っていた。そんな状況もあり、2003年5月のバレーボール黒鷲旗大会終了後、一度は引退を決意した。
「大きな怪我をしたこともありましたが、高校生の時から警察官か教員になりたいという想いをずっと持ち続けていました。警察官は年齢制限が30歳だったので当時27歳の時に、今しかない・・・と警察官になるために勉強しようと思いました。」


■引退を決意してからのオリンピック出場

引退して警察官になるために勉強をしようと思っていた矢先、2003年3月に発足した『柳本ジャパン』の柳本監督から直接全日本チームの合宿参加要請を受ける。「とりあえず騙されたと思って合宿に来てほしい」と言われ、軽い気持ちで合宿に参加したが、そこには翌年のアテネオリンピック出場を目指し蒼々たるメンバーが選出されていた。「最初は、どうせ辞めるのにどうしてこんな合宿に参加しないといけないのか・・・という気持ちだったのですが、徐々にこのメンバーと一緒に頑張りたい、やらなきゃいけないという気持ちに変わっていきました。目的意識が高いチームにいることで自然と自分の意識も変わり、このメンバーでオリンピックに出たいと強く思っていました」と当時を振り返る。
そして翌年の2004年アテネオリンピックに見事出場する。
「色々あったけど沢山の学びもあり、バレーボールを続けて良かったと感じました。オリンピックにも出場することができて、しっかりやり切ったという気持ちもあり、翌年の2005年に引退することを決めていました。」
しかし、再び転機が訪れる。久光製薬スプリングスの新監督として眞鍋政義氏が就任。「全日本のセッターとして活躍され憧れの選手だったので、このチームでプレーしたい、もう1年選手として頑張ろうという気持ちになりました。」 そして2007年に再び全日本チームのメンバーに選出される。
2008年4月、Vプレミアリーグ出場230試合となり『Vプレミアリーグ特別表彰制度』の基準を満たし長期活躍選手として特別表彰された。同年5月には北京オリンピック最終予選で勝利し、2大会連続のオリンピック出場を果たした。
「何度も引退を考えましたが周りのメンバーにも恵まれ、長年に渡り選手としてプレーすることができました。」
全日本チームで得たものは、とにかく実力の世界ではあるが、チームの根になり必要な存在になれるよう何事も率先してやること。それを心がけるようになったという。


■なりたかった職業に就くことに

トップアスリートでオリンピアンでもある大村さんは、高校時代から将来のことを考え、警察官か教員を目指し大学進学を考えていた。しかし、全日本ジュニアに選出されて以降、バレーボール選手としてもっと力を試してみたいという気持ちを抱き、大学進学を諦めていた。
北京オリンピックが終わり改めて引退を考えていた頃、出身地の京都府教育委員会の教員採用試験にスペシャリスト特別選考があることを知り受験する。特別免許状という特別選考枠で教員採用が内定した。「全国の中でも京都府が率先して進めていた制度だったので、運もありタイミングがとても良かったです。」
2010年3月に久光製薬スプリングスを退団し、4月から母校である京都府立北嵯峨高校に教員として着任したが最初は苦労したという。「元アスリート、元オリンピック選手という特別扱いは勿論なく、むしろ本当に教員ができるのかという目で見られているかもしれないと思っていました。日々勉強しながら自分の出来ることからしっかりやろうと思っていました。」
それは、当たり前のことに気付き感謝する気持ち、周りの仲間の存在、自分自身に言い訳しない、自分の可能性を狭めない・・・。バレーボールという競技に一生懸命向き合い、オリンピックに出場した中で大村さんが学んだことだった。それを生徒たちに伝えていくこと。

現在は、女子バレーボール部の監督を務め、京都の代表校として春の全国高校バレーボール大会にも出場している。


■夢を持ってもらいたい

「生徒たちは自分の鏡だと思って接しています。生徒たちに元気がないと感じた時は、自分が映し出されていると思って誰よりも元気を出すようにしています。授業に集中できていない生徒がいたら「つまらない授業をしてごめんね」と思うし、常に自分から明るい態度で接するよう心がけています。」
そして必ず生徒たちに伝えている言葉がある。『目標を持とう』

「なりたい自分を思い描くことができるのは人間特有のものなので、なんでも失敗を恐れず挑戦してもらいたいと自分の経験を踏まえて伝えています。」
また、気を付けていることもある。生徒たちへのアドバイスを少しでも間違えると違う方向に向いてしまう可能性もある。「軽く言葉を発してはいけないと教員になって改めて感じている。自分が中学生の時に自分の性格をしっかりと見て進路のアドバイスをしてくれた先生の言葉を良く思い出します。」


■指導者として伝えたいこと

「可能性というのは未知数でもっと広がるものなのに、人はすぐに「無理」とか「できない」とか自分自身の可能性を狭めていると思う。実は自分もそうだったと振り返ることも沢山あるけど、「先生、できません」というシーンがとても多いと感じています。」その度に「無理」とか「できない」というネガティブな発言をさせないようにしている。「そうしないとすぐに諦める人に育ってしまう。自分も「無理」「できない」と言うことはやめようと肝に銘じています。」
今のバレーボール部の選手たち皆がトップアスリートになるわけでもないし、色々な考えを持って時間を過ごしている。だからこそバレーボールを通して人間力を高めて欲しい。「時間の量は変えられなくても質は変えられるという教えも同じこと。人間は100%の力をなかなか出せないもの。その力を自分の限界に近づけるのが指導者の役割だと思っています。」
目的意識を持たない、ただやっただけの練習を続けていては伸びるものも伸びない。「時間の使い方の質を変え、その限られた時間をいかに過ごすかが大事。」自分自身もバレーボールを通して、多くのことを学んだ。それをしっかりと指導者として伝えていきたい。

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