上野太郎『自分で決めたら、最後までやり切る覚悟。』

上野太郎 北京オリンピック セーリング日本代表選手

上野太郎。2008年北京オリンピックのセーリング日本代表選手として出場。
大学卒業後に一度は競技を引退し、社会人生活を送るも、大学時代の先輩のオリンピック出場に触発され、競技に復帰。オリンピックでは総合7位入賞を果たしました。

自らの目標達成を遂行する、ゴールへの強い意志と諦めない心が彼のスポーツキャリアを形成しました。


上野さんのスポーツキャリア
  • 小学4年の頃から地元のサッカーチームに入団。
  • 中学に入り、父親の影響により野球部に入部。「将来はプロ野球選手になる」という夢に向かって練習をがんばるが、思うような競技成績は残せなかった。
  • 私立高校へ進学後、新たな競技を模索。高校からでも始められるセーリング競技(ヨット)を選択し、高校・大学と競技に専念した学生生活を送る。
  • 大学卒業後、競技を離れ、商社に入社。
  • 大学時代の先輩がアテネオリンピックに出場し、触発されて競技復帰を考える。好タイミングで大学時代の元パートナーからの誘いがあり、悩んだ末に、競技復帰を決断し、退社。
  • 会社員時代に培った”社会人経験”によって、少しずつ支援者を獲得していき、競技環境を自ら整える。そして、2008年北京オリンピックの出場権を獲得。
  • オリンピックでは7位入賞。オリンピック後は競技を辞め、再就職し、現在に至る。

自分で決めたら最後までやり切る覚悟

高校に入学し、中学までしていた野球では目指していた目標を達成できないと感じた上野さんは、高校からスタートできる競技としてヨット部に入部しました。高校は遠距離通学のため、朝5時に起きて片道1.5時間の通学、授業の後、練習やミーティングを経て帰宅は12時近くになる、厳しい環境の中、3年間競技を続けました。元々入部した時点で、途中で競技を辞めるという選択肢を捨てており、この3年間は努力を続けました。
この考えは大学時代でも同様でした。競技を続けるとなれば、目標を設定し努力する、始めたからにはやり切る覚悟が既にありました。
高校の3年間、大学の4年間と競技を続けて、卒業と共に競技から離れていました。

大学を卒業すると、スポーツとしてのヨットとは距離を置き、商社に就職した上野さん。
その社会人生活を送る上野さんでしたが、大学時代のヨット部の先輩が2004年のアテネオリンピックへの出場が決まり、その壮行会に出席しました。
皆の羨望の眼差しを受けて舞台の上で立っている先輩の姿に衝撃を感じ、自分の中にも「オリンピックの舞台に立ってみたい」という願望が芽生えました。しかし、目立った実績も競技環境も無い上野さんにはすぐには決断することができませんでした。しかし、丁度その時、一本の連絡が上野さんの人生を変えることになりました。
「大学時代のパートナーが、電話かけてきて、『一緒にやらないか』ってことを誘われました。その電話がなかったらきっと、『オリンピックっていいなぁ』って思いながらもたぶん動き出してないと思います。」
仕事を辞めてしまうことへの抵抗よりも、今やらなければ一生後悔するという想いに突き動かされ、両親の反対にも折れることなく、自分の決めたオリンピックへの道を進み始めました。
オリンピックという輝かしい目標を持って走り出した上野さんですが、競技を離れ、所属も無く活動を始めた為に、競技環境をゼロから用意する必要があり、特に競技資金の工面に大変な苦労を強いられました。競技の練習や大会出場を重ねる傍ら、社会人経験で培った、目標達成のための逆算したスケジュール管理や、自身が必要な費用の獲得、ひとりの人間としての社会的な信用など多くのスキルを活かして、100社ほどの企業への支援をお願いして回りました。

「自分の環境を整えるのがすごく大変でしたね。食費を抑えてでも活動費を確保しようとして、大学のヨット部のOBにもらった車にヨットと炊飯器と米を載せて、全国行脚しました。」
後戻りできない環境の中で、前だけを見据え、成功への道順を一歩ずつ辿っていく上野さん。資金難の克服だけでなく、競技の面においても結果を求めていました。
「“オリンピック”という結果を求めてやっているので、その結果がでない限りは満足できないだろうというのは分かっていましたから。」
オリンピックに出場するという目標を達成した上野さん。オリンピック終了後は、「目標を達成するためのアプローチの仕方」を活かし、再び商社に再就職しました。

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