樽野 恵『アメリカでもっともっと多くの人にバドミントンを広め楽しんでもらいたい』

樽野 恵
1988年生まれ。福岡県北九州市出身。指導者であった母親の影響から5歳でバドミントンを始めた。全国小学生大会では1999年に5年生の部、2000年に6年生の部で全国優勝と二連覇を達成。高校は石川県金沢向陽高校へ進学。卒業後はNTT東日本へ就職。2009年に全日本社会人選手権で優勝、2013年には全日本総合バドミントン選手権大会で準優勝。2016年の2月に現役を引退。4月から渡米し、日本人初の海外でのバドミントンコーチとして活動中。


これまでのキャリア

●2000年 全国小学生選手権大会シングルスの部 2連覇達成
●2004年 全国高等学校選抜大会ダブルス 優勝
●2007年 全国社会人選手権シングルス 2位
●2008年 大阪OP IC 優勝
●2009年 全国社会人選手権ダブルス 2位
●2010年 全日本社会人選手権大会シングルス 優勝
●2011年 全国ランキングサーキット大会 シングルス 2位
●2012年 オーストラリアOP IC ダブルス優勝
●2013年 全日本総合選手権大会 ダブルス2位
●2014年 日本ランキングサーキット大会 ダブルス優勝
●2014年 ロシアOP GP ダブルス4強
●2016年 2月に引退
●2016年 4月からアメリカでバドミントンアカデミーコーチに


■5歳から目標はオリンピック

バドミントン経験者の母の影響で、気が付けば5歳からバドミントンをやっていた。母親がバドミントンのクラブチームを作ったタイミングということで他のスポーツの選択肢はなかったと樽野さん。
バドミントンが盛んな北九州と言うこともあり、部活よりもクラブチームが盛んなエリアだった。小学生ながら週に4日~5日はバドミントンの練習をしていたため、なかなか友達と遊ぶことも少なかった。でもここで精神力が養われたんだなと痛感しているそうだ。
コーチであった母親は練習態度や、時間厳守、生活面でも大変厳しく躾けられた。今更ながら大人になって改めて感謝することは多いという。
そういった厳しい練習環境ではあったが普通ではなかなか経験のできない全国各地へ行けたり、表彰されたり自分なりに喜びを感じていた。
そして身体も比較的大きかった樽野さん。小学生ながら中学生に勝ってしまうこともしばしばあった。
その中、中学からライバル関係にあった熊本出身の藤井瑞希選手の存在は大きかった。必ずと言っていいほど九州大会や全国大会の決勝で何度も戦い高校ではお互いを意識し認め合える存在になっていたと。(藤井選手は後にロンドンオリンピックでダブルス銀メダルを獲得する)
高校はずっと指導してもらった母親の元を離れて、石川県の金沢向陽高校に進む。石川県はバドミントン大国といわれていて能力の高い人は金沢向陽に行くと言う流れもあった。金沢向陽高校の練習は短期集中型。強豪校では珍しく練習時間は短かった。ただ練習は大変厳しかったが自分には本当に合っていたと。そしてずっとシングルスしかやってこなかったが、向陽高校ではダブルスもはじめた。
向陽ダブルスという有名なスタイルがあり、卒業後も向陽出身の人なら誰でも組めて試合ができた。そして2004年にダブルスで高校日本一になる。
1年生の時はシングルでインターハイ2位になり、ナショナルチームのBチームに選出された。そこで社会人の代表の方や大学生の方々と一緒に合宿をするようになり、大学への推薦もあったがオリンピック出場を意識し始め、あえて遠回りせずに社会人への道を決意する。
バドミントンを始めたころの夢(オリンピックに出たい)を確信に変えた瞬間だった。


■社会人はあえて男子の強豪チームに
 そして五輪を目指したが

社会人女子の強豪チームからの誘いは当然あった。
最終的に選んだのは、NTT東日本だった。女子は強豪とまでは呼ばれてなかったが、当時の男子シングルス日本チャンピオンだった佐藤翔治さんからの勧誘があり入社することに決めたと樽野さん。
強豪男子チームがあり、いい環境で練習ができると言うのも大きな理由だった。男子の球を受けることもできるし男女ミックスで練習ができるというのも魅力的だった。そして団体戦は新人ながら第一ダブルスに出場ができ大きな大会でも最初から経験を積むことができた。そして国内でもシングルスで優勝を重ね、2012年のロンドンを目指すこととなる。
バドミントンのオリンピック選考基準は大変厳しい。
開催年の4月まで、前年の4月から1年間のランキングポイントで決まる。
みんな国際大会に出てポイントを稼がなければならない。
シングルス2名、ダブルス2組のみが出場枠。シングルスの場合ランキング16位以上、ダブルスの場合は8位以上の出場枠しかない。ただし8位以内に三組のペアがいてもトップ2しかいけないという選考基準。シングルスも同様で16位に3名いるとトップ2しか出場枠がない。
日本はレベルが高く樽野さんが現役時代はダブルスでも15位以内に4組がいるという状態であった。
オリンピックレース期間中、世界でポイントの高い試合で優勝しないとなかなかポイントは稼げない。シングルスでの出場を目指したが大きな怪我をしてしまいポイントが足りなかった。結果ランキング内に入ることが出来ず2012年のロンドン五輪は叶わなかった。
次のオリンピックは4年後のリオデジャネイロ。目標を4年後に定めポイントを重ねていく。シングルスでは社会人大会での優勝、ダブルスでは全日本総合で2位という成績だったがダブルスに切り替えてリオデジャネイロを目指した。
日本代表として代表Aチームでも活躍して、世界選手権にも出場していたが
オリンピックの1年前、オリンピックレースのナショナルチームから外れ、リオデジャネイロオリンピックの可能性はなくなった。
子供のころからの夢だったオリンピック出場の夢は叶わなかった。
27歳だった。4年後の東京オリンピックのことも考えたがそこまで自分のモチベーションが続く気がしなかったと樽野さん。
2015年ナショナルチームから落ちた時にセカンドキャリアについてはじめて考えたという。NTT東日本という企業に残る選択肢もあったが、自分では身体を動かさず働くというタイプではないなと考え引退イコール退社を決断する。
5歳から始めていたバドミントンから離れると言う決断がなかなかできなかった。


■誰もやったことがないコーチングにチャレンジしたい

2015年にナショナルチームから離れて国内大会のみの選手になった時に、英語圏でのコーチングを考え始めた。英語が得意ではなかったが次の夢は二か国語を話せて海外でコーチングをしたいということだった。
知人を含め周囲の関係者にアメリカに行きたいと伝えたところ協力して頂けた。まだ現役時代ではあったが休暇をとって10日間渡米。意外な発見があった。アメリカには高校年代くらいまではバドミントンのクラブチームがたくさんあるということ。そして中国系アメリカ人が多いということ。でもなぜか大学にいくと体制の問題なのかバドミントンをやめてしまう。スポーツでお金を稼ぐという文化のあるアメリカではバドミントンは稼げないという理由が大きいらしい。大学や実業団に体制は全く整っていない。でもバドミントン人口は多い。クラブチームもたくさんある。そして、みんな楽しそうにやっている姿を目の当たりにして「これだ!」と感じたと樽野さん。
そこで2016年3月に退社することを決めていたのもあり、2015年の10月には現在コーチングをしているアカデミーに籍を置くことをきめた。そして2016年に単身アメリカに渡った。当初は正直寂しさもあったがLAの空と海が本当に気持ちをリセットできる環境であり自分にも向いているなと思った。


■セカンドキャリアはアメリカで

バドミントンはアジア圏が強い。アメリカは強豪ではない。オリンピックでも大陸枠があって出場はしているもののメダルを獲得出来ないレベル。ナショナルチームもない。アメリカでバドミントン??と周囲に驚かれたが、だからこそアメリカで活躍をしたいと感じた。もちろんアメリカからオリンピックに出ると言うのではなく、そういった選手を自分の手で育てるということをやりたいと思った。そしてバドミントンをもっともっとアメリカで普及させたいという想いが強かった。


 ■バドミントンの楽しさを教えていきたい

 オリンピック選手を育てていきたいという選択肢もあったがアメリカに来て感じたコーチングは、褒めて育てていくと言う環境。でも樽野さん自身は厳しくコーチングはしている。コーチングの理論も変えていかないとと感じ始めた。
日本でずっと厳しい環境で育ってきたのでコーチングは厳しいが、自分自身は楽しみながらやっていたというのを忘れてはいない。当然楽しいということもしっかりと伝えた。アメリカではもっともっと多くの人にバドミントンを楽しんでもらえるようにしていきたいと。そしてオリンピックに出たいという選手を育てていきたいというのもある。強い選手をコーチングするより、楽しんでいる人の中で強くなりたいと言う選手をコーチングしたい。そして何れ、アメリカチームの日本人コーチとしてオリンピックに出ることができれば。そういったところで役に立ちたいと感じているという。
バドミントン界でアメリカにわたりコーチングを実践している例はない。
セカンドキャリアでの新しいチャレンジ。
数年後、樽野さんがアメリカ代表ナショナルチーム監督になっているというのを見てみたい。

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