長良将司『フェンシングでまちおこし 地方創生のモデルとなるように』

 

長良 将司
1977年生まれ。岐阜県出身。フェンシング・サーブル選手として、2000年シドニーオリンピック、2004年アテネオリンピックに出場。引退後はナショナルチームのコーチとして、オリンピック日本代表選手、強化指定選手らを指導。JOCスポーツ指導者海外研修制度を活用し、渡米。帰国後は再びナショナルチーム、ジュニアチームのコーチを経て、沼津市で「スポーツを通したまちづくり」を推進するため、2019年4月沼津市職員に転職。


これまでのキャリア

●岐阜県立羽島北高校の時、フルーレ・サーブルの2種目で高校総体優勝。
●フェンシングの強豪大学、法政大学に進学。
●大学卒業後、富山国体の強化選手として富山県の企業に1年間支援を受ける。
●2000年シドニーオリンピックにサーブル日本代表として出場。
●地元に帰り、岐阜県庁の職員として、働きながら競技活動を継続。
●2004年アテネオリンピックにサーブル日本代表として出場。
●2006年アジア競技大会(ドーハ)で、団体銅メダルを獲得
●2006年~2014年、ナショナルチームコーチ
●2014年~2015年JOCスポーツ指導者海外研修制度を活用し、アメリカ・オレゴン州で、指導者プロ資格を取得
●2015年~2019年3月 ナショナルチームコーチ、エリートアカデミーコーチ
●2019年4月から、沼津市役所職員


フェンシングを活用したまちおこしで、地域・経済活性化へ

スポーツ庁は、スポーツを活用して地方創生に取り組む「スポーツ・健康まちづくり優良自治体」の表彰式を行っている。2021年12月には全国の30自治体が受賞し、沼津市はその自治体の一例として、フェンシングを通しての地域産業の振興や競技の普及、環境整備の取り組みを表彰式の場で紹介した。
「スポーツを通じたまちづくり」を掲げていた沼津市は、東京オリンピックにおけるフェンシング日本代表チームの事前合宿招致活動などをきっかけに、2019年2月、日本フェンシング協会と全国初の包括連携協定を結んだ。なぜ、スポーツの中でもフェンシングが選ばれたのか。始まりは、2015年にさかのぼる。フェンシングの日本代表として2度のオリンピックに出場した経験を持つ長良将司さんが、沼津市在住の関係者から声をかけられ、町おこしをするなら、フェンシングでできないだろうかという話になった。その3年後、縁あって長良さんが日本フェンシング協会と沼津市の間を取り持つことになり、2018年の暮れに、日本代表チームの合宿を沼津市内で実施することになったのだ。ちょうどそのころ、同協会の当時の太田雄貴会長が「東京だけで集中して練習するだけでなく、地方拠点をつくりたい」と考えていたこともあり、「東京からのアクセスも良く、市としてしっかりとした長期ビジョンを掲げて、フェンシングを強化、普及してくださる沼津市とぜひ包括協定を結びたい」と話が進んで協定締結に至った。その活動の第一歩として、長良将司さんが2019年4月から任期付きの職員として沼津市に家族と共に赴任することが決まった。


フェンシングと言えば沼津と言われるように

長良さんが職員として設立に携わった「フェンシングのまち沼津推進協議会」は、「フェンシングのまち沼津」というブランドを形成し、フェンシングを通じたスポーツツーリズムの推進による観光交流人口の増加を図ることを目的とし、主に4つの事業に取り組んでいる。
①裾野拡大事業(競技レベルの底上げ) 
②シンボルフェンサー育成(トップ選手の輩出) 
③大会開催・合宿誘致事業
④フェンシング環境整備事業。
長良さんはそれぞれの事業の推進役であり、実際に指導者としても現場でレッスンやアドバイスを行っている。設立から1年後の2021年6月には、沼津駅北口に活動拠点施設である“F3BASE”が完成。フェンシングの競技台であるピスト6台、トレーニング場、シャワールーム、会議室などがあり、フェンシング以外にも高齢者向けの体操教室、子供向けの体験教室などにも使われる。
「フェンシングを活用して、沼津の人たちの健康増進や、合宿招致での経済効果アップや、地元の子どもたちの競技力強化など、いろんなことを担当させていただいています。たとえば強化で言えば、小中学生5人を週6回レッスンして、小学生の全国大会で優勝と2位という成果をあげることができました。フェンシングをしている子供たちだけではなく、地元の子どもたちにも”夢を持つ大切さ”や”目標設定の重要性”など、キャリア教育もしています。沼津は”サイクリングの聖地”と言われているので、最近はサイクリングを組み込んだトレーニングなども行って、大学の合宿などの招致もできればと考えています。”フェンシングと言えば沼津”と言われるような、フェンシングを通して沼津市民の人に、”このまちに生まれて良かった”と思ってもらえるようなまちづくりをめざすというのが、ひとつの目標です」


競技を続ける環境がなく、苦労した現役時代

まちおこしと言えば、自身の出身地や縁のある土地にUターンして従事する人もいるが、長良さんの出身は岐阜県だ。高校生になってから始めたフェンシングで、高校総体優勝(フルーレ、サーブルの2冠)を果たし、大学は法政大学へ。卒業後は、富山国体の強化指定選手として支援を受けながら2000年のシドニーオリンピックに出場。フェンシングには実業団がなく、長良さんが大学時代のころは、競技を継続したいトップ選手には、期間限定の国体要員か、警視庁、自衛隊などしか道はなかった。長良さんもシドニーオリンピック後は契約満了となり、次の就職先は2つの選択肢に絞られた。「警視庁に所属して、東京で活動する」か、「地元岐阜の正規の県職員として就職し、教育委員会の仕事と県立高校の事務職をしながらフェンシングの指導を行い、主に岐阜で活動する」か。長良さんは、地元を選んだ。「東京でいつも同じ顔ぶれの選手と練習するより、自分で強化プランを練り、練習を考えて、海外を転戦するという、自由度が高いやり方が自分には合っているのではと考えました」。遠征や合宿がないときは、毎日9時から17時までフルタイムで働き、限られた時間の中で工夫して練習をした。結果、2大会連続でオリンピック日本代表に選出され、大会後27歳で現役を引退した。「本音を言えば、もう少し競技を続けたいというのもありましたが、県からは競技はアテネオリンピックまでと言われていたので、環境がなかった。経済的にも、年齢的にも、現役選手として活動していくことは無理だと思い、サポートする側に回ることを決めました。

 


ナショナルチームの指導者、海外研修を経て、まちづくりの仕事へ

引退後は、サーブル種目のナショナルチームを指導することになった。終身雇用だった岐阜県の安定した公務員を辞め、再び東京へ。2006年~2014年の8年間に、北京オリンピック、ロンドンオリンピックの女子サーブルのナショナルチームコーチを務めると、2015年から1年間、JOCスポーツ指導者海外研修制度を活用し、アメリカ・オレゴン州で指導者プロ資格を取得した。そこで日本にはない長期の育成プランに多くの気づきをもらった。
「アメリカでは、選手は幼少期から指導を受けているコーチと共にナショナルチームに入るという、一貫した指導体制をとっていました。日本は進学するたびに部活動の指導者が変わるので、選手によっては途中でうまく行かなくなってしまうこともある。私も選手を子供のころからずっと指導してみたいという思いを持って帰国しました」
長良さんは、日本に戻ってからJOCのエリートアカデミーで中高生を教えるようになり、アメリカスタイルに近い指導を始めたが、一方で渡米前と同じようにナショナルチームの指導も任された。以前と異なっていたのは、都内のナショナルトレーニングセンターの専用練習場を活用し、トップ選手、指導者は東京で一極集中での練習をするという強化施策が、少しずつ変わろうとしていたことだ。今後の競技の発展を考えた時、育成や普及の拠点は東京以外にも複数作っていくことも必要なのではないかと、協会内でも言われ始めていた。折しも東京オリンピックに向けて、複数の自治体から事前合宿への誘致があり、沼津市もその一つの都市であった。双方をつなぐ役割の一部を担った長良さんが、これまでのすべての経験を生かせる新天地として、沼津市役所に赴任し、構想を実現化する推進役に任命された。2年半の間に沼津市内の選手人口は66人から約100人に増え、活動を支援、出資してくれる企業は、40社以上に増えた。
「フェンシングが盛んなヨーロッパでは、”フェンシングのまち“がいくつもあります。沼津の皆さんにもフェシングを身近な競技としてもっと触れ合う機会をつくりたいですし、トップ選手も子供のころから一貫して育てていきたい。そのためには、今はまだ指導者の数も少ないので、引退した選手にも手伝いに来てほしいという希望もあります。沼津に生まれてフェンシングに出合えてよかったと思っていただくために、今後もこのまちでいろんなことに取り組んでいきたいと思っています」。
長良さんは来春からは正規の職員となり、地方創生のモデルになるようなまちづくりを行っていく予定だ。

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