藤田征樹『自分がどうしたいかを考え、自分で決めることが大事。』

藤田征樹。北京2008パラリンピックで日本人初の両足義足のパラリンピックメダリストとなり、ロンドン2012パラリンピック、リオデジャネイロ2016パラリンピックと3大会連続で合わせて5つのメダルを獲得

藤田征樹。北京2008パラリンピックで日本人初の両足義足のパラリンピックメダリストとなり、ロンドン2012パラリンピック、リオデジャネイロ2016パラリンピックと3大会連続で合わせて5つのメダルを獲得した両足義足のサイクリスト。世界選手権でも2度の優勝経験を持つトップアスリートでありながら、平日はエンジニアとして建設機械メーカーに勤務し、フルタイムの仕事をこなしています。仕事と競技を両立する現役アスリートの藤田さんに、キャリア観を聞きました。


藤田さんのスポーツキャリア
  • 小学1年生でスピードスケートを始める。
  • 中学・高校時代は陸上部に所属。
  • 2003年、大学入学。翌年にトライアスロンサークルに入部。
    夏休み中に交通事故で両脚を損傷し、両ひざ下を切断する。
  • 2006年、義足をつけてトライアスロンの健常者レースに出場し、完走を果たす。
  • 2007年、大学院に進学。トライアスロン強化の一環で出場したパラサイクリングのロード大会で優勝。スカウトを受け、日本代表に。
  • 北京2008パラリンピックの1kmTT(タイムトライアル)(LC3-4クラス)、3km個人追抜(LC3クラス)で銀メダル、ロードTT(LC3クラス)で銅メダルを獲得。
  • 2009年、トラック競技世界選手権の1kmTT(LC3クラス)で初優勝。
  • ロンドン2012パラリンピックのロードTT(C3クラス)で銅メダルを獲得。
  • 2015年、ロード世界選手権のロードレース(C3クラス)で優勝し、6年ぶりとなる世界選手権での勝利を挙げる。
  • リオデジャネイロ2016パラリンピックのロードTT(C3クラス)で銀メダルを獲得。

大学で出会ったトライアスロン、義足での挑戦

日本最北端の都市、北海道稚内市で生まれ育ち、小学校時代はスポーツ少年団でスピードスケートをやっていた藤田さん。中学・高校では陸上部に所属し、中距離選手として毎日走り込んでいたそうです。

「陸上競技では地方大会出場までで、優秀な選手では全くなかったですが、スポーツは好きでしたね。人に言われて練習するのは嫌でしたが、自分でやると決めたら全力で取り組むタイプでした」

高校を卒業し、機械工学を学ぶために大学に入学。しかし、すぐに体育会やサークルに入ることはしませんでした。

「体を動かすことは好きだったのですが、どんな形でスポーツをやろうか、はたまた文化的な活動もいいかな、と模索しながら1年間を過ごしました」

やりたいことが見つかったのは大学2年生の春。同じ学科の友人から誘われ、トライアスロンのサークルに入ります。

「トライアスロンを選んだ理由は、走るのと同じぐらい自転車が魅力的だったから。小さい頃から近所のおじさんの自転車がかっこよかったとか、友達の自転車がかっこよかったとか、自転車に惹かれることが多くありました。ツール・ド・フランスをテレビで見ることもありましたし、大学1年のときに目の前で見た自転車レースがとてもかっこよく感じました。好きな陸上と自転車をあわせたらトライアスロンというスポーツがあり、泳ぎは特別得意ではなかったのですが、何とかなるかなと(笑)」

ところが、その数カ月後に藤田さんは交通事故で両足のひざ下を切断する大ケガを負ってしまいます。

「足の切断を受け入れることは簡単なことではありませんでした。でも怪我を負う少し前に義足でトライアスロンに取り組む方のドキュメント番組を偶然見ていて、その映像が頭の片隅に残っていました。医師から『今は義足が進歩しているので、うまくいけば歩けるようになるでしょう』と聞いたとき、それをふと思い出して『じゃあまたトライアスロンができるかな……』と、少し飛躍したことを考えてしまいました。現実は甘くはなかったですが、そう思えたからこそ義足でもう一回歩けるようになろうと前に進めたのだと思います。切断することは、最終的に自分の意思で決めました。当時はまだ未成年でしたし急を要する事態だったとは思うのですが、両親はその決断を僕に委ねてくれたのです」

「もっと強く、もっと速く」が原動力に

6カ月の入院とリハビリを経て大学に復帰し、学業の遅れを懸命に取り戻す傍ら、藤田さんは義足でトライアスロンレースに挑戦することを決意。ケガから1年10カ月後に関東学生トライアスロン選手権に出場し、完走を果たします。

「両足義足でも走れることが証明できた、じゃあ次はもっと速くなろうと思い、トレーニングの一環として仲間と自転車耐久レースに挑戦したりしていました。そんな中で障がい者の自転車レース(パラサイクリング)の存在を知り、力試しのつもりで日本障害者自転車競技大会に出場したところ、優勝することができました。2007年、大学院1年生の5月でした」

実はこの大会、世界選手権の代表選考を兼ねる重要な大会。その場でパラサイクリングの関係者からスカウトを受けた藤田さんは、その年の夏にフランスで開催された世界選手権大会へ出場することに。

「フランスの世界選手権では幸運にも銀メダルを獲得できました。その後も海外のレースに出場して国別ランキングのポイントを稼いでいく中で、少しずつパラリンピックへの意識が強くなっていきました」

着実に結果を積み重ね、北京2008パラリンピックの出場権を得た藤田さんは、初出場ながら銀メダル2個、銅メダル1個を獲得する快挙を成し遂げました。しかし、喜びよりも悔しい気持ちの方が大きかったといいます。

「負けて悔しい気持ちと同時に、キャリアの浅い自分の未熟さがとても悔しかったです。自転車競技をもっと知りたい、もっと強くなりたい、もっとちゃんとした選手になりたい、そんな気持ちでした」

その思いを胸に、翌年には世界選手権(トラック競技)で初優勝。以降、トップアスリートとしてのキャリアを歩んでいくこととなります。

仕事もトレーニングもアプローチは同じ

一方で、勤務先では建設機械の研究開発を手がけるエンジニアとして10年のキャリアを持つ藤田さん。就職に対してはどんな考えを持っていたのでしょうか。

「日本代表になったのが大学院在学中でしたので、競技と並行して就職活動をしました。今の会社を選んだ理由は、機械工学の知識を生かして面白い仕事ができると思ったからです。地元の北海道では除雪作業にも建設機械が使われており、身近なものでもありました。アスリートとして特別枠での採用ではなく、あくまで一般応募の技術系大卒枠で採用されました。北京2008パラリンピック前に会社から内定をいただき、9月にパラリンピックに出場して、翌年の4月に入社しました。メダリストになったので、会社も少し驚いたようです(笑)」

とはいえ、働きながら競技者として世界レベルを維持するのはそんなにたやすいことではないはず。

「そうですね。仕事と競技は、時間はもちろん体力や精神力など自分の中の資源を取り合う関係にあるので、それをきちんとマネジメントすることが重要です。
特に時間の使い方は大切だと思います。限られた時間の中でトレーニング時間をきちんと確保し、計画的に進めることが大切です。現在、私は個人的にコーチと契約し、目標やトレーニングの方針を決めて共有し、トレーニングメニューを提供してもらっています。
また働き方や資金の面では、自分から会社に要望を伝えることも大切だと思います。現在は国際大会などの重要なレースは出張の扱いとさせていただいていますが、こうした待遇は会社と話し合ったうえで実現してきました。もちろん、仕事でも周囲の方々に納得していただけるよう、成果を出すことを常に考えてやってきました。
どういう目標を持って、いつまでにどんな成果を出すか、そのためにどうアプローチするかを考えることは、仕事もスポーツも同じだと考えています」

自分で決めたことだから納得して進んでいける

最後に、未来を担うアスリートに向けて、デュアルキャリアを考える上でのアドバイスを聞きました。

「東京2020オリンピック・パラリンピック開催が決まってから、選手を取り巻く環境が大きく変わってきています。アスリートのサポート企業や競技活動を応援してくださる機会が増えてきています。さまざまな選択肢がある中、アスリートは最終的には結果を出すことが一番重要な役割なので、そのためにどうすべきかを自分で決めていけばいいと思います。プロフェッショナルとして競技を行うのか、働きながら競技を行うのかなど、どの方法がベストかは選手によって異なると思います。大事なのは、自分で決める力を持つこと。人の意見を聞いたり相談した上で、最終的には自分で考えて、自分で決める。

私の場合、足の切断もそうすることができました。泣いたり、悲しんだり、人に当たったりしたこともありましたが、納得しているのは自分で決めたからです。競技をどう進めていくかも同じです。北京からロンドンへ、ロンドンからリオへ、そしてリオから東京へ。今は、4度目のパラリンピックで優勝するために、より強くなれるよう取り組んでいます。どのようになりたいのか、しっかり自分で考えて決めるからこそ、大変ではありますが、面白いし、実現したい目標に向けてがんばれるのだと思います」

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